4.4 中国の最高権威。皇帝(最高権威)が絶対的権威と権力を合わせ持つ
 
 では、次に中国を見てみよう。古い歴史をもち、東洋文明の発祥の地であり、東洋の超大国である中国では、その歴史を通して最高権威はどのようなものであったか。
 中国では、紀元前6000年ごろに農耕がはじまった。やがて食糧や耕地をもとめて集団間で戦いがはじまった。中国でも国家が姿をあらわす前に、防衛施設の環濠や土塁をめぐらせた集落が各地にできた。集団間の戦いが頻繁におこり、勝利した集団は敗者を捕虜にして、使役に使うようになり、勝利した集団から、王が生まれた。こうして不平等集団が出現した。王を頂点とする不平等集団は、王の権威に服従させることによって、支配地域をどこまでも拡大させることができた。こうして、王の権威のもとに集団が巨大化していき、各地に国家がうまれた。やがて紀元前221年、秦の始皇帝によって、中国が統一された。中国の皇帝は、神とはならなかったが、全国民を服従させる隔絶した権威があった。別の言い方をすると、中国全土を統一するためには、皇帝の隔絶した権威が必要不可欠なのである。
 
 秦の始皇帝は13歳の時(紀元前246年)に秦王に即位し、陵墓の造営を開始した。50歳で死んだときにはまだ完成しておらず、さらに2世皇帝が2年間かけて完成させた。その大きさは東西・南北およそ350メートル、高さ53メートル(完成時の大きさは底部が485×515メートル、高さが87メートル)、一人の皇帝のために陵墓を造り始めてから完成するまで実に40年ほどかかる途方もない大工事だった。
 
 陵墓の下には堅固な地下宮殿がつくられ、膨大な宝物が運びこまれた。1974年に始皇帝陵から東へ1.5キロほどの場所から巨大な規模の副葬兵馬俑が発見された。約8000体もある実物大の兵馬俑は陶器質でできており、その表情はまことに真に迫るものがあり、一つとして同じものはない。その質と量には世界がびっくりさせられた。もし始皇帝陵が破壊や盗掘にあわなければ、その宝物は質・量ともに全世界を驚嘆せしめるものであることは間違いないはずだ。

 一人の皇帝の陵墓造営のために多くの犠牲者がでた。陵墓の西南約1.4kmのところにある1020平方メートルの合葬墓地には一面に人骨が厚い層をなしている。
 
 始皇帝はとてつもない大宮殿(阿房宮)の建設にも乗り出した。阿房宮は東西690メートル、南北115メートルの木造建築で、1万人が収容できたという。これは始皇帝の生前には完成せず、秦の滅亡後、項羽によって焼かれてしまった。
 
阿房宮と始皇帝陵の建設に70万人が動員され、さらに万里の長城建設に30万人が動員された。
 
 始皇帝は自分の墓の造営に70万人も動員できたし、気に入らない人物を極刑にすることも思いのままだった。韓非の思想が気に入ると、それ以外の思想書を全部焼く命令をだし、違反者を極刑にした。流言をとばして民をまどわす学者がいるとして、460人あまりの学者を生き埋めにした。万里の長城の建設という途方もない大規模な工事に農民大衆を動員することができた。このように中国では皇帝が隔絶した権威をもった。この皇帝が中国の最高権威となり、中国全土が皇帝の権威に服することによって中国の統一と秩序が保てるようになった。
 
 なお、君主が絶対的な権威と権力をもつ体制は、始皇帝からはじまったことではない。中国に多くの小国家が出現したときから、その小国家では、王が絶対的権威をもち、その権威のもとに国家体制がつくられてきた。始皇帝が出現する以前でも、王の墓には、死後にも王に仕えるため、数百人が生きたままか、あるいは殺されて埋められた。王たちは人間を副葬したばかりでなく、自分たちの先祖や神様を祭るときにも、人間を生贄にした。始皇帝が出現する前にもこのような慣習が1000年以上もつづいており、中国で起こった小国家では、王が絶対的権威をもち、国民全体がそれに服従することによって、国家をつくっていた。このように国家に統一と秩序をもたらす方式は、中国が始皇帝によって統一される前も後もすこしも変わらなかった。始皇帝が中国を統一して以来、皇帝を最高権威として、中国全体に秩序がもたらされた。
 
 反乱が起きて王朝が倒され、国内が無秩序状態になり、次に秩序ができたとき民主主義体制になっているということはありえない。秩序がよみがえったときは決って皇帝がいて、前の国家体制とそっくり同じになっている。
 
 ではなぜ1912年に王朝体制が終わったのかといえば、ヨーロッパの民主主義思想の影響を受けたから王朝体制を廃止することができたのであって、中国みずからの国内で民主主義思想を発展させ、それで民主主義革命をおこしたのではない。ヨーロッパで民主主義思想が誕生していなければ、王朝は倒せても王朝体制は倒せなかったといえるだろう。だが、ヨーロッパ思想の影響をうけて、王朝制度を倒して選挙も行われたが、「権力者に絶対的に服従する慣習」は強固に生き残った。後に、中国人は、最高権力者の毛沢東に対して、皇帝に対するのと同じように、全面的に服従してしまった。文化大革命では、毛沢東の命じるままに、暴力をともなった権力闘争をおこない、多くの人が殺された。毛沢東が死ぬまで、誰も文化大革命をとめることができず、毛沢東は死ぬまで崇拝されていたのである。やはり中国でも、国家の最高権威は非常に変わりにくく、歴史をつらぬいているのである。もっと正確にいうと、最高権力者(皇帝)が絶対的権威をもち、それに従うことによって国家秩序を作り出す慣習が中国全土の人々に浸透した。そして、その慣習が非常に変わりにくいということである。
 
 このことは中国ばかりではない。東洋ではすべて王が隔絶した権威をもち、それに全国民が服従することによって国家秩序を保ってきた。その最高権威のあり方は歴史を通して非常に変わりにくいのである。
 
 次は、同じ視点に立ってヨーロッパの歴史を見てみる。すると最高権威のあり方が東洋とは異なり、ヨーロッパの「型」が浮かび上がってくるのである。
 
 
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