1.3.5 古墳時代直前に激増する焼失集落

 集団同士の戦いでどんなに敵を殺傷しても、それだけで、階級が成立するわけではない。戦いの勝利集団が敗北集団を捕虜として、連行して、近辺に住まわせ、労働や戦いに従事させるようになって、階級が成立する。したがって、戦いに敗北した集団は捕虜としてつれさられ、その集落は無人となって放棄された。そのことを示す遺跡が神奈川県横浜市にある。

 神奈川県の鶴見川とその支流である早渕川沿岸地帯には、弥生時代中期後半、ひしめきあうといってもよいほど、多くの環濠集落がつくられた。長さ18キロの早渕川には、弥生中期後半(宮ノ台期)だけをとっても、遺物散布地をふくめると、左岸に13カ所、右岸に17カ所の計30カ所の遺跡が確認されている。この地域には、直径10qの範囲内に、11ヶ所の環濠集落が存在し、互いに、環濠を掘りめぐらせて、厳重に警戒しあうまでになった。ここには、戦いに敗れて、住居を焼きはらわれ、住人が連れ去られて断絶した集落遺跡と、そのような住民を集めて巨大化していった集落遺跡が存在する。


図面12 横浜市内における弥生時代中後期の環濠集落分布図
1 大塚、2 綱崎山、3 権田原、4 折本西原、5 観音寺北(関耕地)、6 朝光寺原
 
 横浜市内における弥生時代中後期の環濠集落分布図(横浜市歴史博物館 常設展示案内書 35ページ)をもとに筆者が加筆したもの。
 この中で、大塚遺跡・綱前山遺跡・権田原遺跡・観福寺北(関耕地)遺跡・朝光寺原遺跡の図面をのせる。折本西原遺跡の図面は後にのせる。

 大塚遺跡の対岸に対峙する綱崎山遺跡(確認された濠の全長590メートル)は、大塚遺跡から川をはさんで、直線距離で約900メートルほどしか離れていない。そこから、下流2qほどに権田原遺跡(濠の総延長690メートル)、それより下流には森戸原遺跡がある。大塚遺跡から3q南の鶴見川ぞいに、折本西原遺跡があり、その上流には朝光寺原遺跡がある。これらの集落は大変な労力を使って環濠をめぐらし、たがいに厳重に警戒しあっていた。

 図面の中の黒線でかこった小判形のものが住居を示す。これを見ても分かるように、家族の人数を反映したせいか、住居の大きさにばらつきがみられる程度で、古墳につながる階級的格差はまったく見られない。




図面13
大塚遺跡(註1)弥生時代中期後半(宮ノ台期)。註1の原図に筆者が加筆。 



図面14 
綱埼山遺跡(註2)弥生時代中期後半(宮ノ台期)。註2の原図に筆者が加筆。



図面15
権田原遺跡(註3)。この図には、弥生時代中期から古墳時代前期の住居が含まれる。註3の原図に筆者が加筆。



図面16
観福寺北(関耕地)遺跡(註4)。註4から転載。
弥生時代中期後半宮ノ台期の住居址34軒、後期の住居址49軒、古墳時代の住居址2軒。



図面17
朝光寺原遺跡(註5)弥生時代中期後半(宮ノ台期)。註5の原図に筆者が加筆。

 図面をのせた大塚遺跡・朝光寺原遺跡・権田原遺跡は焼失住居が多く、襲撃されて住民がつれさられ、断絶したと考えられる。綱埼山遺跡は焼失住居は3軒ぐらいしかないが、住居址は大塚遺跡と同じようにほとんど宮ノ台期(弥生中期後半)のもので、この時期に住民がいなくなり、一度断絶したと考えられる。

 弥生時代後期(早いところでは中期後半)は明確な階級社会(古墳時代)の直前である。その時代になっても、100人前後のいわゆる原始共産制集団内部では、後の古墳時代につながるような階級は発生していない。これらの遺跡の内部では、家の大きさにバラつきがあるていどで、それは家族の人数を反映していると考えられる。これらの規模の集落内では、どんなに生産が増えても、階級は発生しないのである。私は故意に階級が成立していない集落遺跡をのせているのではない。階級が成立した原始共同体の遺跡は見つけようとしても存在しないのである。

 この地域では、弥生中期後半(宮ノ台期)に、戦いに敗北して住居が焼き払われ、捕虜として連行されて無人となった集落がいくつもあり、大塚遺跡はその一つである。「関東地方のみならず、全国的にも大塚遺跡が弥生の集落を代表する」(「弥生文化の研究」7巻弥生集落)といわれている大塚遺跡を見てみよう。



図面18 
大塚遺跡の焼失住居跡図(黒い住居跡が焼失住居)(註6)

 大塚遺跡の存続期間は50ないし60年程度(大塚遺跡調査報告書 2遺物編)で、長径200m、短径130mの環濠に囲まれており、環濠の長さはおよそ600m、広さはおよそ22,000uである。横浜市歴史博物館発行のパンフレットによれば、竪穴住居跡85軒、掘立柱建物跡(高床倉庫)10棟、新旧環濠2条が発見されている。

 住居は同じ場所で3回立てかえた例があるから、同時に85軒が存在したわけではない。住居跡の形から分かるように、階級的格差が存在しない。隣接する地域に方形周溝墓が25基発見されているが、大きさにばらつきがある程度で、古墳につながる階級的格差はない。

 大塚遺跡では、39軒の住居が燃やされ、燃えた部材が竪穴にくずれおちたまま土に埋もれ、今日まで残った。大塚遺跡集団が戦いで敗北し、住居が燃やされ、住民は捕虜として連行されたため、大塚遺跡は無人となり、39軒分の焼けた部材がそのまま今日まで残った、と考えられる。

 横浜市埋蔵文化センター編の調査報告書「大塚遺跡:弥生時代環濠集落址の発掘調査報告.1遺構編」には火災址のある住居址についてこう述べている。「これらの住居址は集落内に散らばっており、分布の上では特徴は見当たらない。主軸方向やその他の要素を見ても、様々な形態のものがあり特定の傾向といえるものはなかった。言い替えれば本遺跡の存続した期間にわたって、火災にあうということが多かったことになろう。」(同書、431ページ)。

 この報告書によれば、39軒の火災は、遺跡の存続した期間にわたって起こった火災ということになる。だがこの解釈はおかしい。もしそうなら、年間1軒程度の火災があったことになる。年間1軒程度の火災なら、そこの住民によって、燃えかすは片づけられて燃料として使われ、焼けた場所に新たに家がつくられたりするはずで、39軒もの焼けた部材が竪穴の中に残るわけがない。39軒の家が同時に焼かれ、住民は捕虜としてつれさられて無人になったから、そこに土がつもって、39軒もの焼けた部材が残ったのである。

 大塚遺跡内部では、階級が成立しておらず、捕虜としてつれさられた住民は、勝利集団に服従を余儀なくされ、使役に使われたであろう。こうして階級が成立した。

 マルクス主義では、「新しい分業とともに、諸階級への社会の新たな分裂が生ずるのである。」と説明するが、大塚遺跡内部では、住民がつれさられる直前まで、古墳時代につながるような、諸階級へ新たな分裂など、すこしも認められない。わずかに、家族の人数を反映して、住居の大きさにばらつきがある程度である。

 この時期には、大塚遺跡だけでなく、その周辺で、多くの焼失住居を残したまま、放棄された環濠集落遺跡が数多く発生した。

神奈川県の弥生時代中期後半(宮ノ台期)

 遺跡名    住居址数      焼失住居     比率%
 折本西原     84         2       2
 大塚       89        39      44
 権田原     28       15      55
 朝光寺原     40       15      38
 三殿台     41       14      34
 砂田台     93       43      46
 大口台     13        6      46
 関耕地     34        5      15

 「集落遺構からみた南関東の弥生社会」久世辰男著 12ページより

 縄文時代の焼失住居は住居総数の2%ぐらいしかなく(前掲書13ページ)、この図でわかるようにこの時期には焼失住居の割合が異常に高い。この時期のこの地域には、いわば環濠集落がひしめきあっており、互いに環濠を掘りめぐらせて、厳重に警戒しあっていた。なお、この表における住居址数は時代的に幅があり、同時に存在した住宅数を示しているわけではない。大塚遺跡の場合、当時、同時に存在した39軒がすべて焼き払われた可能性が高い。焼失住居の多い遺跡は、戦いに敗れた住人が連れ去られて、無人となったため、今日まで残ったと考えられる。

 神奈川県内を調査した弥生時代研究プロジェクトチームによれば、弥生時代の住居(2221軒)のうち、焼失住居の比率は、古い順に、須和田期0%、宮ノ台期(中期後半)24.1%、後期13.7%、庄内12.1%、となっている。神奈川県内でも弥生時代後半は焼失住居が異常に多く発生した。この時代は、古墳時代という階級格差ある小王国が成立する直前の時代で、この時代には、戦いで敵を単に殺傷するだけでなく、敗北集団を捕虜として捕らえ、開墾に従事させたり、兵士にしたてたりして、小さな階級社会が作られていった。そのため、敗北集団は連れ去られ、住居は火をかけられ、集落は無人になって、断絶していった。このように考えられる。

 大塚遺跡から2・3キロ離れている権田原遺跡や朝光寺原遺跡でも住居の半分ちかくが焼失住居である。これも、当時、同時に存在した住居がすべて燃やされた可能性がある。焼失住居が埋もれて現代まで残ったということは、焼けた部材を誰もかたづける人々がいなくなったことを意味しており、その時点で住民は連れ去られて環濠集落が断絶したと考えられる。

 なお、集落内で焼失住居が多く発生したのは、そこの住民が平和的・自発的に移住するさい、みずから住居に火をかけて移住したからだ、という説がある。だが、この説は説得力に乏しい。環濠をつくったことでも分かるように、周囲の集落とは厳しい緊張関係にあり、しかも、大きな労力を投入して環濠を作ったことからみても、そこの住民は、必死に自らの集落を守る強い意志をもっていた。しかも集落の近くには、自分たちの食糧を作っている水田もある。このような集団が、周囲から軍事的圧迫を受けもせず、平和的・自発的に自分の住居を焼き払い、集落を放棄して、他へ移住するはずがない。もし、平和的に移住するさい、住居を焼き払う風習があったのなら、環濠集落が増加する弥生時代後期だけに焼失住居がきわだって多いことの説明がつかないし、古墳時代にはいって焼失住居が急速に少なくなる事実も説明できない。

 集落内で、焼失住居が多いのは、階級が成立しつつある弥生後期(早い地域では中期後半)だけであり、古墳時代になって社会が安定して戦いが減れば、焼失住居は急速に少なくなるのである。弥生時代後期にのみ、焼失住居が多いのは、集団(集落)間の戦いの結果であると考えるのが自然である。
 神奈川県の大塚遺跡周辺は関東で最も早く古墳がつくられた地域で、そのため、戦いによる階級の成立も早い時期(弥生中期後半)におこり、住民が連れ去られて、断絶した環濠集落も多く出現した。

『関東地方、とくに南関東で、一部の地域を除くほぼ全域にわたって環濠集落が出現、定着し、集落のひとつの形として隆盛する、文字通りの極盛期として、中期後半段階をあげることに異論の余地はなかろう。東京湾をめぐる一帯では、この段階、河川流域を中心に異例とも言える密度で環濠集落が展開し、盛時を極める。出現、展開過程の細部については未だ不明の点を多々残すが、どうやら東京湾西岸の鶴見川水系や東京湾東岸の村田川、養老川水系などの弥生時代の開発の焦点となった地域では、大規模な集落のほとんどすべてに、ある時点における「環濠集落化」の痕跡がみとめられるようである。

 中期後半段階に続く明確な盛期が、後期段階にあることは確かであるが、それが後期のいつ頃にあるのか議論の岐れるところである。現状で確言できるのは、宮ノ台期の環濠集落のほとんどが、同時期の内に終焉し、後期以降継続して環濠集落が営まれることは極めて稀である、という事実である。上記した鶴見川水系では、宮ノ台期の環濠集落10例、後期の環濠集落4例が確認されているが、中・後期に継続する事例は皆無であり、後期の環濠集落はいずれも中期のそれと立地を異にする。』「季刊考古学 第31号」(1990年5月1日発行)松本完著述分(早稲田大学校地埋蔵文化財調査室)。

 古墳時代の直前に、関東でも「異例とも言える密度で環濠集落が展開し」たように、各集落間では、軍事的緊張がたかまっていた。戦いの勝者は敗者の集落を焼き払い、住民を捕虜として連れ去り、自らの集落に住まわせ、使役などに使うようになると、勝者の集落は巨大化していく。そのような遺跡が横浜市内にも存在する。
 それは折本西原遺跡だと考えられる。ただし、折本西原遺跡はごく一部しか発掘調査されていない。



図面19
折本西原遺跡(註7)弥生時代中期後半(宮ノ台期)。註7の原図に筆者が加筆。
 図面の左に見られる方形周溝墓が通常の大きさで、一辺が10mぐらいである。図面の左から3分の1ぐらいと、右から3分の1ぐらいの所に二つの大きな方形周溝墓がある。左の周溝墓は溝幅を含めた中軸の長さは、東西約22.66m、南北23.3mあり、右の周溝墓は溝幅を含めた中軸の長さは、東西約26.0m、南北25.6mである。

 折本西原遺跡は大塚遺跡と同時期(宮ノ台期)で、鶴見川沿岸に位置し、大塚遺跡の南3qのところにある。部分的にしか調査されてないが、広さは8万u(あるいは14万u)と推定されており(大塚遺跡は、22,000u)、周囲の環濠集落よりも隔絶的な大きさをもち、発見された住居数84軒のうち焼失住居は2軒のみで、周辺の環濠集落と比べるときわだって少ない。さらに、通常よりはるかに大きな方形周溝墓があり、周辺を支配して階級社会をつくりあげた首長の墓の可能性があり、階級成立の初期段階を表しているといえる。折本西原遺跡の近辺にある大塚遺跡・権田原遺跡・朝光寺原遺跡は焼失住居が多く、折本西原遺跡の住人は、周囲の環濠集落を陥落させ、その住人を捕虜として近くに住まわせたので、通常より大きな環濠を掘らせることができた。そこで集落が巨大化するとともに、階級が成立し、首長の墓(通常より大きな周溝墓)がつくられるに至った、と考えられる。

 東京都八王子市にも、焼失住居の多い弥生後期の集落遺跡がある。宇津木遺跡である。この遺跡は、階級社会(古墳時代)直前の集落遺跡であるが、ここでも、内部で階級格差は生じていない。



図面20
宇津木遺跡(東京都八王子市)(註8)弥生時代後期。註8の原図に筆者が加筆。黒い住居址が焼失住居。

北陸地方でも、ふえる焼失住居
 戦いで敗れた集落の住居が燃やされ、住民が連れ去られたのは、横浜市内だけではない。弥生時代後期、つまり、戦いによって階級が成立していった激動の時期には、全国的にみても焼失住居跡が激増し、住民がいなくなって断絶した環濠集落は、他の時期とくらべると、きわだって多いのである。

 「考古学ジャーナル」2003年11月号、509号(通巻)には、麻柄一志(魚津市教育委員会)著述分によるつぎのような図面と論文がのっている。



図面21 北陸地方の焼失住居の時期別件数の図

 この図を見ても、焼失住居は弥生後期だけがきわだって多い。「北陸地方の焼失住居」と題する論文で麻柄一志氏はつぎのように書いている。

『北陸地方では弥生時代中期末に防御的性格の強い環濠集落・高地性集落が出現し、弥生時代の終焉とともに廃棄される(麻柄1998)。福井県から新潟県の範囲に確認されている高地性集落はほとんどが、弥生時代後期の短期間に営まれており、戦国期の山城と重複する例も多い。こうした立地環境は弥生後期の高地性集落が戦国時代の山城と同じような目的で構築され、使用されたことを示唆している。以上のような理由で北陸地方の弥生時代後期は戦乱の時代であったと想定できる。そしてこの高地性集落の出現から終焉までと軌を一にするように焼失住居が存在する。弥生時代の戦乱の象徴である高地性集落に焼失住居が目立つのも事実である。

環濠を有する北陸地方の代表的な高地性集落である石川県杉谷チャノバタケ遺跡、同鉢状茶臼山遺跡、新潟県裏山遺跡、同八幡山遺跡で焼失住居が検出されている。特に集落全体が調査された裏山遺跡では環濠内に8棟の竪穴住居が検出され、その内の6棟が焼失住居であった(引用者の図面22)。社会の争乱状態を示す高地性集落の焼失住居は戦乱によって焼かれたと考えるのが自然であろう。(中略)北陸地方の焼失住居は縄文時代中期から平安時代に亘って認められるが、弥生時代後期に集中する。縄文時代や古墳時代以降の焼失住居は資料が少ないためそのあり方に特別な意味を見いだせない。

 これに対し、焼失住居数が突出する弥生時代後期の北陸地方は高地性集落、環濠集落の存在から集団間の緊張関係を想定している。また、古代東北地方の焼失住居も戦乱との関係が指摘されており、さらに文献からも戦いで村や建物を焼く行為が記録されている。こうした状況証拠などから、北陸地方の焼失住居も弥生時代後期に北陸地方を巻き込んだ戦乱によって生まれたものと考えられよう。』「考古学ジャーナル」2003年11月号、509号、麻柄一志著述分より。



図面22 
新潟裏山遺跡(「考古学ジャーナル」2003年11月号)。ここにも階級格差はあらわれていない。

 弥生時代後期に焼失住居が多いのは山陰地方でも同様である。「山陰地方の焼失住居」岡野雅則(鳥取県教育文化財団)著述分より。

『本項では、山陰東部鳥取県内における焼失住居を中心に研究の現状と検出例を概観する。県内の焼失住居は、牧本哲雄氏の集成によれば56遺跡165例が報告されている。内訳は弥生時代前期1,中期4,後期108,古墳時代前期22,中期23,後期3,不明4例である。このうち、弥生時代後期後葉が突出しており79例(全体の47.8%)を占める。』「考古学ジャーナル」2003年11月号、509号。

神奈川県は関東でもっとも早く古墳が作られた地域
 このように、弥生時代後期は、集団間による激しい戦いが行われ、敗北した集団は住居を焼かれ、捕虜として連れ去られた。その後、広い地域にわたって安定した支配関係が構築された古墳時代には焼失住居はほとんどなくなる。

 神奈川県の鶴見川とその支流の早渕川や矢上川地域では、弥生時代中期後半に、環濠集落が密集して、集団同士の戦いが早くから行われたため、関東地方ではもっとも早い時期に階級社会がつくられていき、その結果、関東ではもっとも早い時期に古墳が出現した。

『弥生時代の大集落の営まれた港北区日吉附近は、関東地方でもっとも早く古墳文化が開花した地域の一つである。日吉下ノ町には、多摩川の沖積平野を見下す台地の縁に観音松古墳があり、そのすぐ南にある川崎市北加瀬町の白山古墳と矢上川を隔てて相対していた。いずれも長径約90メートルの大型の前方後円墳であった。この二つの古墳は今日知られているかぎりでは、南関東で最古の様相を示しており、その造営の実年代は五世紀初頭をくだらず、あるいは四世紀代に遡るのではないかと推定される。』(「横浜市史 第一巻」和島誠一著述分 91ページ)

 大塚遺跡や折本西原遺跡と観音松古墳とは6qぐらいしか離れていないのである。大塚遺跡を見ても分かるように、集落内の住居の大きさはばらつきがある程度で、集落内部では、後の古墳時代につながるような階級的格差は生じていない。マルクス主義(唯物史観)では原始共同体内で貧富の差が生じて階級が成立したというが、一つの集落内で貧富の差が生じて、階級が発生したことを示す遺跡が一体どこにあるのか。弥生時代の遺跡や遺物は、階級が集団(集落)同士の戦いで成立したことを示している。


(註1)「大塚遺跡:弥生時代環濠集落址の発掘調査報告.1遺構編」(横浜市埋蔵文化センター編 1991年)。
(註2)「綱崎山遺跡」(横浜市教育委員会発行 2004年)。
(註3)「権田原遺跡」(「港北のむかし」84号、1987年)。
(註4)「関耕地遺跡」(観福寺北遺跡群発掘調査団発行 1997年)。
(註5)「横浜市域北部埋蔵文化財調査報告書 : 経過概報 昭和42年度」(横浜市域北部埋蔵文化財調査委員会 1968年)。「横浜市埋蔵文化財調査報告書. 昭和43年度」( 横浜市埋蔵文化財調査委員会 1969年)。
(註6)横浜市歴史博物館発行の常設展示案内書。1995年1月。
(註7)「折本西原遺跡」(横浜市埋蔵文化財調査委員会発行、1980年)。
(註8)「宇津木遺跡とその周辺」(考古学資料刊行会発行 1973年)。

戻る